つれづれなるままお散歩日記(仮)

仕事を辞めてIターン。母との散歩が日課の男の日記・・・だったはずなのに・・・

パニック障害で気絶する

母が亡くなってからすぐ、お葬式の準備が始まり、お寺にいってお坊さんの手配をしたり、母の知人に連絡したり、お正月はいろいろと忙しく過ごしていました。

弟家族と従妹親戚が来てくれたことでいろいろと助かりました。

 

当然、母が亡くなってしまったことは、悲しすぎて何度も泣いていますが、

日に日に衰弱して、それまで当たり前にできていたことが、だんだんと少しづつできなくなっていく様子を何もできずに見守るほうがずっと辛かったです。

その時に比べれば少し気持ちが楽になっているのを感じていました。

 

みそかは自分でもよくわかりませんが、なぜか無性にずっと出来ていなかった洗車がしたくなり、時間を見つけては近くのガソリンスタンドに行きました。でも、いつも洗車機の前には長蛇の列ができていて諦めていました。

今まで一度も夜に洗車したことはありませんが、この日だけは夜8時過ぎにも行ってみました。でも、もう閉まっていました。

とても寒い中、窓を開け、ありえない遠回りをして暫く運転したことで、頭が冷え、少し冷静になれました。

 

私は母の体調が特に悪くなってしまった、このひと月あまり、あまり眠れず、食欲もないという日が続いていました。

たまにとても眠くなったり、強い空腹感を覚えたりしたので、その時だけ、ぐっすり寝たり、普通に食べたりできました。

 

この日は父や弟家族が床についた後、お葬式のときに展示する写真を選別するため、母の写った写真を見ていました。時間はまだ24時ぐらいだったと思います。

 

写真を見ていくうち、あまりに一度にいろいろな思い出がよみがえり、胸がいっぱいになりました。

そしてこのとき、急に息苦しくなってきました。、頭がクラクラして、体から汗が吹き出しました。

とりあえず水分を取ろうとお茶を飲み、顔を洗おうと自分の部屋を出て、2階の洗面所にいったのですが、気づいたら洗面所の床で寝ていました。

時計を見ると5分ぐらい意識を失っていたようです。

「これ、脳梗塞かもしれないなー。」と思いながら、フラフラと起き上がり自分のベットまで歩き、ひとまず脳梗塞のセルフチェックをしてみたら、意外と問題ないので、救急車を呼ぶのはやめました。

少し楽になってからネットで調べてみたら、脳梗塞以外にもパニック障害でこういうことが起こるとありました。

今まで、ストレスが原因で体調が悪くなるというのが、イマイチ信じられなかったのですが、本当にあるんですね。

コロナで匂いが感じられなくなったとき以来の衝撃体験でした。

 

いやー、後から考えると、めちゃくちゃ冷静なパニック障害でした。

さすがにこの後は、なるべく眠るようにし、なるべく食事をとるように気をつけるようになりました。

長い一日・・・

弟が来て母に会えたことで少しほっとしたのか、この日は父が作ってくれた辛めのカレーを美味しく完食しました。

そして、父と弟と3人で今後のことを話しました。

母が退院して家に帰って来てくれた後の話。明日来る弟家族のお迎えの話。直近の家計の話です。

 

父と母のお金はすべて母が管理していて、父は最後まで母から引き継がれるのを拒んでいました。父は母が自分よりも先にいなくなってしまうことを考えたくなかったのです。

そのため、今現在どのぐらい生活費がかかっていて、どれぐらい貯蓄があるのか、全く知らない状態でした。加入している保険についてもほとんど知りませんでした。

 

母はかなり前から私に、もしもの時に見るメモの場所を伝えていました。

また、家以外の財産があまりないことも伝えていました。

母は私に冗談まじりで「死んでもっていくわけじゃないし、あまりお金は残さないけどい~い?」と聞いていました。

私は「当たり前じゃん。自分のお金なんだから、なるべく使って楽しく過ごしてね。でも後で生活に困らない範囲でね。」と言いいました。

私が前橋で働くようになってからは、私の分の生活費として母に一定額(日暮里で住んでいたマンションの家賃よりも少ない額)を渡していましたが、それを受け取るとき、母はいつもうれしそうな顔をして「助かってるよ。ありがとう。」と言ってくれました。

週に1度の外食のときは、私が払おうとしても、結局、半分は母が持ってくれました。

 

私はこの日、ずっと熟睡できない日が続いていたこともあって、少し早めに寝付くことができました。

 

孫の誕生日が過ぎた1230日の午前2時、母の入院する病院から電話があり、私は飛び起きました。

最初は寝ぼけて電話に出られなかったのですが、すぐにかけ直しました。

やはり、母が危ない状態であることを知らせるものでした。

 

私は2階の寝室で寝ていた弟を起こして状況を伝えました。1階では既に父が物音を立てていました。

3人ともすぐに着替えを済まし、私の車で病院に向かいました。

普段は30分かかる道のりですが、夜中で道が空いていて、やけに信号のめぐり合わせがよく、2時半には病院に着きました。

 

この時だけは緊急入口を素通りし、すぐに母の病室に入れました。

母に繋がれたバイタルサインチェック装置のモニターを見ると、血圧は上が55、下が35でした。呼吸もかなり早くなっていました。

明らかな異常値ですが、深夜で警告音は消され、病室には母の呼吸音だけが響いていました。

目はとろんとしており、いくら話しかけても、もう反応がありませんでした。

それでも家族みんなで話かけ続けました。

 

暫くして、今は反応できないことを悟り、3人で交代に母の手を握り続けるようになりました。その間もバイタルサインは上がったり下がったりを繰り返しながら徐々に下がっていきました。

 

私は長い一日になるとを予感し、このままでは全員、体力が持たないので交代で少し眠るように提案しました。

私は翌日の夜には車で高崎まで弟家族をお向かえに行かないといけません。

 

父は母の病室のソファーを並べて少し眠りました。

自分は病院の待合室のソファーで30分ほど眠れたと思います。

弟は一睡もしませんでした。

 

このまま朝になり、従妹家族と叔父が来てくれました。

病室には一度に数人ずつしか入れないので、交代で母の元にいきました。みんな泣いていました。

孫のたくちゃんと弟の奥さんは台湾から戻る飛行機に乗ったところで、直前のビデオ通話で孫が話しかけても、母は反応を示せませんでした。

母の血圧は上が47、下が25になりました。熱は386分ぐらいあって、呼吸が速くなったり、遅くなったりを繰り返していました。

 

朝の9時半になって、私は近くのコンビニでお茶とおにぎりとサンドウィッチを買ってきました。父と弟は少し食べれましたが、私は食べれませんでした。

それからも病室で交代で母に話しかけたり、手を握り続けたり、足をマッサージしたりしてました。

 

昼過ぎになり、血圧は42/22になりました。

途中、何度か呼吸が止まりかけましたが、母は頑張って呼吸を続けました。

そして、38/23になったとき、母は大きく目を見開きました。一瞬意識を取り戻したかと思いましたが、そのままゆっくりと目を閉じ、息を引き取りました。

時間は13時。15分後に医師が来て、死亡確認されました・・・。

僕たちはそれからも暫く、交代で母の手を握り続けました。

 

ずっと悪夢を見ているようでした。

とても長い時間が経過したような、ほんの一瞬のような、不思議な感覚でした。

 

それからも大変でした・・・。

僕たち3人とも母の葬儀について考えていませんでした。

 

まずはやるべきことを看護師さんに教えてもらいました。

なるべく冷静に葬儀屋さんを手配して、母を自宅に連れていく必要がありました。

また、高崎駅に台湾から直行した弟家族を迎えにいく必要がありました。

病院の手続きも必要でした。

僕たちは3人で分担し、夜になってやっと母を含めた家族全員、自宅で会うことができました・・・。

最愛の孫の誕生日・・・

この日は母の最愛の孫のたくちゃんの誕生日でした。

今年は弟の奥さんの台湾の実家にいますが、今までほとんど前橋の家に来て、お祝いをしていました。

前橋には31日に来る予定で、母はそれをとても楽しみにしていました。

 

この日も面会可能時間になって、まず父が母の元に行き、父と入れ替わりで僕と弟が母の病室に入りました。

母にはオキシコドンという強い痛み止めが使われ、前日にはなかったバイタルサインチェックの装置が取り付けられていました。

 

母はもう、目がうつろで話しかけても反応がありませんでした。

最愛の孫とのビデオ通話でも反応できませんでした。

 

母の寝息だけが響く中、僕と弟はもしかしたら聞こえているかもしれないと、なるべく母に話しかけ、手を握ったり、マッサージしました。この日も時間ギリギリまでいました。

 

看護師さんに「今日はどなたか一人なら病室に泊まれますがどうしますか?」と聞かれました。

意識はなくてもバイタルサインは緊急状態にはなっていなく、緊急事態になればすぐにご連絡すると言われました。

僕は母に意識があれば絶対に泊まっていましたが、自分も含め家族全員すでに憔悴しきっていましたし、今後を考えるとここで無理しすぎてもいけないと思い、この日、病院に泊まるのは辞退しました。

 

家に帰り、弟が連絡して、弟家族は台湾から東京の自宅に戻らずに直接、前橋に来てくれることとなりました。

また、東京からよく家に遊びにきてくれる近い親族たちが5人。帰省の予定を早めて駆けつけてくれていましたが、この日は母に会わせてあげることができませんでした。

みんな母をとても大事に思ってくれていますが、まさかこんなに早く危篤状態になってしまうとは思っていませんでした・・・。

 

ひとまず最愛の孫の誕生日と母の命日が重なる事態は避けられました。

そして・・・

子供の頃からの家族4人で

この日は弟が予定を変えて帰省してくれました。

弟は某世界的IT企業で超多忙な生活を送っています。

僕は車で高崎駅まで迎えに行き、面会可能時間の14時半ごろに病院に到着しました。

 

父は既に母の病室にいました。

弟は想像以上に衰弱している母を見て呆然としていました。

弟には毎日、電話やラインで母の状況を伝えていましたが、つい数日前のビデオ通話では母は自分でスマホを持って弟家族と笑顔で話していたのです。

 

僕はこれが最後になる予感がして、涙をこらえながら、子供の時から一緒だった家族4人で写真を撮りました。

少しして、父は夕飯の準備のため、今週初めからのルーティン通りに家に戻りました。

 

母は目に力がない状態でしたが、まだかろうじて意思疎通できました。

弟の手を握り、しばらく弟を見つめていました。

 

僕は持って行った、あまおうゼリーを食べられるか母に聞きました。

これは母がまだ家にいたときに、最後に食べさせてあげたものでした。

母は最初は少し首を横に振りましたが、「お願いだから少しだけ、ほんの少しだけでいいから食べてほしい。」とお願いすると、口をあけ、ほんの少しずつ、二口食べてくれました。

 

弟は台湾に帰省中の弟の奥さんに連絡して、孫とのビデオ通話をしてくれました。しかし母はもうあまり反応を示せず、じっと画面を見つめていました。

 

僕らは2時間ほど母と一緒に過ごしました。

母が起きているときは、2人で交代でなるべくやさしい声で話しかけ、母が眠っているときも手を握り続けていました。

ゆっくりと穏やかに時が過ぎていきました。

 

面会時間の終了を看護士さん告げられ、仕方なく病室を後にする時にも母は眠っていました。

僕は母を起こしていいものか悩みましたが、これが最後になってしまうかもしれない可能性を否定できないので起こすことにしました。

そして母の肩を軽く揺らそうとした寸前に、母は目を覚ましました。

 

僕は母に顔を近づけ、「また明日くるね。たくちゃんも明後日にくるからね。みんなお母さんのこと大好きだからね!僕が一番大好きだと思うけど・・・(笑)。ありがとう。強くなるからね。心配しないでね。」と伝えました。

弟も母に思いを伝えました。

その後、母は目を閉じました。少しして母の寝息を聞いた後、僕たちは病室を後にしました。

衰弱が早すぎて・・・

今日は午前中で仕事を切り上げ、今、自社にいる5人で昼食会にいきました。

もちろん、社長のおごりです\(^o^)

これが普段ならうれしいことなのですが、最近は食事が喉を通らないことが多いので、食べれるか心配していました。

直前まで「ソバなら食べれるかな?ゆっくり食べなきゃな。」と思っていました。

 

社長が連れて行ってくれたのは「いっちょう」という、昼は定食屋で夜は居酒屋になるタイプのお店でした。

予定通り、そばにしようかと思っていましたが、どなたかがカキフライを注文したのを聞いて飛びつきました。暫くカキフライを食べていないことを思い出したのです。

久々の熱々カキフライはとても美味しかったです。

頭には母のことがチラついていましたが、完食して楽しく会話できました。

 

解散した後、すぐに母の病室に行きました。時間はまだ14時。今日は3時間ほど母と過ごせます。

母は日に日に衰弱しており、この日は黄疸が強くなっていました。

声が聞き取れないほどか細くなり、極端に口数が減りました。食事もほとんど口にできないそうです。僕がいた間もほとんど眠っていました。

僕はずっと母の近くにいて、目を覚ましたときに、少しずつゆっくりと話しました。

 

「何かしてほしいことある?」と聞くと、母はゆっくり口を指さし、「拭いて・・・。」と言いました。

母は全身の筋肉が落ちてしまってからも、歯磨きにはかなり気を使っていました。歯間ブラシでキレイにするのが好きでした。

僕はティッシュを濡らして母の渇いた唇を潤し、できるだけやさしく歯を掃除しました。

ウイダーインゼリーなら飲めそう?」と聞くと、母が「お水・・・。」と言いました。

お水が手元にきれいな水がなかったので、「お茶でもいい?」と聞くと母がうなずいたので、コップにお茶を入れてストローを口元に差し出しました。

母は心配になるほどストローを吸っていましたが、飲み終わった後もコップには7割ぐらいのお茶が残っていました。

僕は面会可能な時間が尽きるまで母の手を握っていました。

 

母はほんの少し前まで、体を支えられながらも自分で歩いて外食に行けていました。

このペースで衰弱してしまうとは想像できませんでした。

今考えると本当にギリギリまで、家で家族一緒に過ごせるように頑張ってくれていたのです。

あまりにも急で、あと何日残されているのかと胸が締め付けられるような思いですが、せめて明日やってくる弟と、今、台湾の実家に帰省している弟の奥さんと最愛の孫がやってくるまではこのままで。できることなら、もう少しだけ元気を取り戻してほしいと願っています。

面会リターンズ

今週の月曜から母の入院している病院はインフルの流行で面会全面禁止になりました。

しかし、父が病院に掛け合ってくれて、特別に看護師長さんから面会の許可を頂きました。

とてもうれしいし、感謝しています。

しかし、同時に特別待遇して頂けるほどの状態であると再認識し、心配でならなくなりました。(情緒不安定なのは自覚してます(^_^;))

 

ということで現在も毎日、お見舞いにいけています。

母は仕事を優先してほしいといいましたが、それでは僕がとても後悔してしまうことになると伝えて許してもらいました。

 

あまり長くいても母が疲れてしまうので、父が14時から15時頃まで、自分は15時半まで仕事して16時から17時頃まで病室で過ごしています。

毎日、快く早退させてくれるアットホームな会社にも感謝しています。

 

母は少し調子がよかったり、とても悪そうだったりと波がありますが、日に日に口数が少なく、声が小さくなっていって、僕が滞在できる1時間のうちでも半分は眠っています。黄疸も出てきていますし、とても心配な状況が続いています。

 

起きているときは、なるべく話しかけ、一緒に写真を撮ったり、届いているLINEを読んであげたり、たった一人の自慢の孫の写真を見せたりしています。

孫のことを話すときは、いつも目をパッチリ開いて聞いていました。

 

ウトウトしていたり、寝ているときは起こさないように足のマッサージをしています。

今はマッサージしてもあまり効果がないのですが、母にマッサージすることで自分が癒されています・・・。

 

明日は今年の出社最終日。

小さい会社なので業務は午前中に終えて、お昼に食事会をしてそのまま終了するそうです。できるだけ長い時間、母に寄り添いたいと思います。

面会可能な最終日

今、母が入院している病院はインフル&コロナの対策で明日の月曜から面会全面禁止となります。

 

母は寝たきりで鼻から酸素を吸入している状態で、化学治療のために胸に入れたポートから点滴を行っています。

不幸中の幸いで、脳梗塞後も会話はほとんど問題ないものの、LINEはできないし、自分で電話にでることも難しくなってしまいました。

もしかしたら、このまま会えずに、会話もできずに亡くなってしまう可能性も否定できません。自分はいてもたってもいられませんでした。

 

僕は看護師さんにこれから毎日、母の電話にでてもらえないか、または自分に電話してもらえないかお願いしました。

不覚にも、その最中に涙が溢れてしまいましたが、看護士さんは了解してくれ、毎日12時半と19時以降に電話してもらえることになりました。

とても感謝しています。

 

普段は面会時間に厳しい病院ですが、この土日は長く面会させてくれました。

父と共に母の病室に1時間ぐらいいることができて、その中で弟と弟の奥さんとビデオ通話できました。急に電話してしまったこともあり、この日は最愛の孫のたくちゃんが学校で不在でしたが、母は話ができたことにとても喜んでいました。

翌日にはたくちゃんもいるとのことで、ビデオ通話の約束をして終了しました。

 

日曜日も父と一緒に面会可能時間になってすぐに母のもとに行きました。

母は前日よりずっと元気がありました。

さっそくビデオ通話をして画面にたくちゃんが出ると、母は自分からスマホを持ってとてもうれしそうに会話しました。

弟や弟の奥さんとも長く話せてとてもよかった。30分ぐらい会話できたと思います。僕もうれしくて涙がでました。

ビデオ通話を終えてからも母は暫くテンションが高く、会話が弾みました。

父も喜んでいました。

 

少し安心して父と一緒に家に戻り、今度は母の弟である叔父を連れて病院にいきました。叔父にとって母は唯一の2親等以内の親族です。

母はタバコの匂いをとても嫌がるので、叔父は前日からタバコを我慢して臨んでいました。

一応、面会は「1日1回15分。2人まで。」という規制があるので、少し心配していましたが、僕も無事に病室に入れました。

母は叔父と会って少し微笑みました。

叔父はあっという間に弱ってしまった母の様子を見て驚いた様子でした。少し顔を上に向け、しばらく暗くなった8階の窓から外を眺めていました。

 

僕はその時間もずっと母の手を握って語りかけ、30分以上会話しました。

別れ際、僕は何度も手を振って一度病室を後にしようとしましたが、いたたまれなくて母に軽く抱つき、鼻声で「本当にありがとう。おかあさんのおかげで群馬に来て楽しかったよ。また会おうね。家に帰って来てみんなでお話しようね。」と言いました。

母は「私が泣いちゃうじゃない。強くなって。」と言いました。

僕は「強くなるよ。心配しないでね。」と言って母と別れました。

 

今日は、なるべく後悔しないための最低限やるべきことを実行できたのはよいですが、それと共にとんでもない寂しさが襲ってきました。

僕は家に帰っても食事が喉を通らず、暗く塞ぎこんでいると、久々に父に怒られました。「みんな悲しいんだ。強く生きなければダメだ!」と言われました。

僕はハッとしました。つい1時間ほど前に母にも「強くなって。」と言われたばかりです。

「お母さんにも全く同じこと言われたよ。」と父に伝え、謝りました。

 

それからは僕もなるべく気丈に振舞うように努力しました。

僕はいつも父が意外と普通にしているので、僕ほどはつらくないのかと感じ、少し苛ついていましたが、父も当たり前にかなり辛く悲しいのです。僕に悲しむ姿を見せないようにしていたのです。

母は僕に「お父さんとは最近よく口げんかしちゃうけど、これまで手をあげられたことどころか怒鳴られたことも一度もない。ずっとやさしくしてくれた。すごく感謝している。でも昔ほどはやさしくなくなったかな。」と言っていました。

そして、「今、一番やさしくしてくれるかっちゃん(自分のこと)には、ここ数年だけでも1度怒鳴られた」と言いました。申し訳なさそう謝る僕を見て、母は笑いました。

 

少し冷静になって考えてみると、父は昔から家のことすべてを母に任せていましたし、僕以上に母に依存していました。つい最近までクイーンサイズのベッドで母と一緒に寝ていました。母は太陽で、父も僕もその周りを回って暮らしていたのです。

 

暫くして父は僕の部屋に来て、もう一度、「強く生きなければダメだよ。頑張ろう。今日は一緒の部屋で寝る?」といいました。

僕は驚きました。父から一緒の部屋に寝ることを提案されたのは、少なくとも大人になってからは初めてです。

家族みんなで溺愛していたミニチュアダックスのカートが亡くなった日、東京にいた僕と弟が高崎の家に帰り、家族みんなで同じ部屋で寝たことを思い出しました。

こんなことがあり、父にももっと優しくしたいと思いました。

 

父のおかげで少し元気を取り戻した20時ぐらいに電話がかかってきました。

発信先を見ると母からでした。びっくりして慌てて電話に出ると、やっぱり母でした。

「自分で電話掛けられたの?」と聞いてみたら、スマホに着信履歴が表示されているのをみて、何かあったのかと思って看護師さんにかけてもらったとのこと。

僕がお昼ぐらいにかけた電話の着信履歴を見て、心配になって掛けてもらったんですね。

心配性なところは変わらずです。とても嬉しかったです。

 

この日は父の提案通り、父のベッドの隣に置いてある、最近母が使い始めたばかりの介護ベッドで寝てみました。暖かく、湿度も丁度よく快適ではありました。

暗い部屋で少し話した後、父はすぐに寝入りました。昔からとても寝つきがよいのです。

自分も寝ようとしましたが、やっぱりどうしても寝付けませんでした。

僕は深夜2時を過ぎた頃、父に申し訳なく思いつつ、そっと自分の部屋に戻りました。